迷わずゆけよ、ゆけばわかる

「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」
高村光太郎の言葉だったか、高校生くらいでその言葉を切り取って知った時、
なぜか、すごく悲しい気持ちになった。

日が落ちた後、息子と散歩していて、遠くの方に光る赤い灯台の光を見つめていた。
そして、その言葉を思い出した。
「人の道も、ああいう風に、ここに行けば正解ですよみたいな目印があればいいのにね。」って、
息子に独り言みたいにつぶやいた。

そして、「私の前に道はない。私の後ろに道はできる」だって、と続けて話した。
息子は何も言わず何か考えていた。

私はいつもへっぴり腰で生きている。
何もない所を信じてぐんぐん前進していけるタイプではない。

波にざざーっと持っていかれて、あっちに行ったりこっちに行ったり漂いながら、
気が付いたらそこにいる。そんなタイプだ。

だから、その言葉を初めて聞いた日、悲しく思ったんだろうな。

しばらくして、夜ご飯の時に息子がその話を旦那に話はじめた。
「お父さんはどう思う?」って、

そうしたら、旦那は
「この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。
踏み出せばその一足が道となる、迷わずゆけよ、ゆけばわかる。」
「これは一休和尚が言った言葉。」

「お父さんはこっちが好き。」と言ったので、息子は笑顔になった。

私はその言葉にすべて救われた気がした。

2021年12月7日

狼に蛍が一匹とまっている

「狼に蛍が一匹とまっている」

この短歌を聞いた時、くすっと笑って素敵だ!と思った。
ちょっとおまぬけでポップな情景を思い描きながら、
子どもたちにも「どんな感じ?」ってワクワクしながら聞いてみた。

すると娘は、寂しいね、と言ったので私は驚いた。
娘には一匹狼の寂しそうな姿に寄り添う蛍が見えたのだと教えてくれた。

息子は更に、息子らしい答えで、
群れの中にいるちょっと出来損ないの弱い狼にとまった蛍が励ましているんだよと教えてくれた。

その二人の答えにまた、二人の生き方を見た気がして、心をうたれていた。

同じ言葉を聞いても、人によってこんなにとらえ方が違うもので、
毎日隣にいる子どもたちの耳に残る世界さえ私は知らない。

言葉は無意味だと思う日がある。
言葉に翻弄される日もある。
言葉に救われる日がある。

そうして、また、私は私の言葉を紡ぎながら、やっぱり言葉は面白い!と思っている。

最近、家族でお題を出し合って短歌を詠みあう雅な遊びをしている。
子どもたちの言葉はいつもフレッシュで、心にまっすぐ届く。

2021年11月26日

天からぼたもち

「棚からぼたもち」は好きな言葉の一つだけど、
先日、たまたま好きなコラムの中でこの言葉について触れていた。

「棚から牡丹餅」は、ありもしない所から牡丹餅が勝手に落ちてきたのではない、
誰か、もしくは自分がそこに大切にしまっておいたものが、忘れた頃に出てきたか、
偶然見つけたか、だ。みたいな話だった。

その話を聞いて大人になった私はしみじみとした気持ちになった。

ずっと、落ちてきた牡丹餅にラッキー!ぱくっ!だった私は
その牡丹餅がどこから来たものか、なんか考えたこともなかった。

その牡丹餅は多分、家族がしまっていたものだったろうと思う。

自分の幸運だと思いこんで、ニタニタ私が食べている所を見つけても
笑っていてくれるように思った。

そして、大人になった今、落ちてくる牡丹餅を自分が入れる番になった。
コツコツと生きて、牡丹餅をいろんな棚にしまいこんで。

あぁ、最近牡丹餅が落ちてこなかったのは、食いしん坊の私が作った牡丹餅を口に入れていたからか。と納得して笑った。

なんて思いながら、息子に「棚から牡丹餅」って言葉知ってる?と聞いたら知らないと答えたので、
本来の意味を説明してみた。そしたら、神様が落としてくれたんやね。
と言ったので、「それは天から高速落下牡丹餅やね!」と言って笑った。

これが、私の最近の棚からぼたもちだと思う。

2021年11月22日