天からぼたもち

「棚からぼたもち」は好きな言葉の一つだけど、
先日、たまたま好きなコラムの中でこの言葉について触れていた。

「棚から牡丹餅」は、ありもしない所から牡丹餅が勝手に落ちてきたのではない、
誰か、もしくは自分がそこに大切にしまっておいたものが、忘れた頃に出てきたか、
偶然見つけたか、だ。みたいな話だった。

その話を聞いて大人になった私はしみじみとした気持ちになった。

ずっと、落ちてきた牡丹餅にラッキー!ぱくっ!だった私は
その牡丹餅がどこから来たものか、なんか考えたこともなかった。

その牡丹餅は多分、家族がしまっていたものだったろうと思う。

自分の幸運だと思いこんで、ニタニタ私が食べている所を見つけても
笑っていてくれるように思った。

そして、大人になった今、落ちてくる牡丹餅を自分が入れる番になった。
コツコツと生きて、牡丹餅をいろんな棚にしまいこんで。

あぁ、最近牡丹餅が落ちてこなかったのは、食いしん坊の私が作った牡丹餅を口に入れていたからか。と納得して笑った。

なんて思いながら、息子に「棚から牡丹餅」って言葉知ってる?と聞いたら知らないと答えたので、
本来の意味を説明してみた。そしたら、神様が落としてくれたんやね。
と言ったので、「それは天から高速落下牡丹餅やね!」と言って笑った。

これが、私の最近の棚からぼたもちだと思う。

2021年11月22日

袖振り合うも他生の縁

大学生の頃、実習で、ある博物館に一週間ほどお世話になったことがあった。
にこにこした館長さんと、優しいお姉さんたちに支えられて楽しい時間を過ごした。

別れ際に館長さんが、うちの実家は香川で有名な張り子の虎を作っているお店をしていると教えて頂き、
いつか機会があれば是非遊びにおいでと言って頂いた。

それから、私は、大学を卒業して、仕事をして、子どもを産んで、
それでも、時々アルバムを開いた時にたった一週間しかいなかったけれど、
もう一度あの人たちに会いたいなぁと心密かに思っていた。

それから15年以上が経って、旦那が次の仕事は張り子の虎のお店なんだけど…と話し始めた時、
もしかしたら!と胸が高鳴った。

そして、撮影に半分無理やり同行させてもらうことになった。
館長さんは顔のものすごーーーく広い方で、一週間実習に来た小娘を覚えているはずもなく、
それでもまためぐって来た機会が私はとても嬉しかった。

子どもたちも絵付けの体験のモデルという名目でちゃっかり、しっかり楽しんだ。

館長さんはお元気で、昔と全く変わらない空気でそこにいらした。
淀みなく、静かで、温かく、深く。
話し方も、人に対する心遣いも何一つ変わっていなかった。

そのことに私はただただ感動していた。

私はといえば、自分の思い通りにいかないことに終始イライラしたり、
頑固になって人に背を向けたり。かと思えば、
違う意味では相変わらず無作法で、世間知らずのままで。

そんな私をあの日と同じ笑顔で丁寧に迎えてくれた。

そして、館長さんの奥さんも、取り巻く人たちも素敵な人たちだった。
あったかいお鍋をみんなで食べたみたいな穏やかな時間。

あぁ、だからまた会いたかったんだ。

年末にまたおいで。
来年の干支を作ろう。

帰り際にそう言って車まで送って頂いた。

一年の終わりがいつも憂鬱な私にはプレゼントのように温かい言葉だった。

袖振り合うも他生の縁。

そんな言葉を思いながら、
子どもたちにもこの空気を覚えておいてほしいなと願いをこめて頭を下げた。

2021年9月2日